1990年代後半から2000年代にかけて、日本の製造業・流通業ではSAPをはじめとするERP導入が大きなブームとなりました。
ERPとは、販売・購買・在庫・生産・原価・会計など、企業の基幹業務を一つの仕組みで統合管理するシステムです。
考え方そのものは非常に優れています。
しかし日本では、多額の投資を行ったにもかかわらず、導入が長期化したり、費用が膨らんだり、現場で使いにくいシステムになったりするケースが数多く発生しました。
なぜSAP導入はうまくいかなかったのか
最大の原因は、「優れたシステムを導入すれば、会社も自動的に良くなる」と考えてしまったことです。
SAPの基本思想は、会社の業務を標準化し、システムに合わせる
ことでした。
ところが日本企業では、「この会社には昔からこのやり方がある」「この得意先だけ特別な処理が必要」「この工場では別の管理方法を使っている」「今使っている帳票をそのまま残したい」
という要求が数多く出ました。
その結果、本来は標準パッケージであるSAPに大量の追加開発を行うことになりました。
つまり、
標準システムを購入したはずなのに、最終的には巨大なオーダーメイドシステムになってしまった
のです。これが、費用増大、納期遅延、複雑化、保守費用増大の大きな原因となりました。
特に製造業では難しい
販売や会計は比較的標準化できます。しかし製造業の現場には、その会社で長年蓄積された独自の経験知があります。
例えば、
- この原料は夏場だけ扱いが難しい
- この設備では製品によって速度を変える
- この得意先向け製品だけ検査方法が違う
- この材料は数字上在庫があっても実際には使えない
- この工程では熟練者が音や色を見て判断している
といった情報です。
こうしたものは、世界標準のERPを購入しても最初から入っているわけではありません。
ここにSAP導入の難しさがありました。
そして現在、同じことがAIで起きようとしている
現在は、「AIを導入すれば会社の生産性が上がる」という期待が急速に広がっています。
しかし、この言葉は20~30年前の「ERPを導入すれば会社が変わる」という言葉と非常によく似ています。ChatGPTやClaudeなどの生成AIは非常に優秀です。
しかし、その会社固有の業務を最初から知っているわけではありません。
AIは、「御社のこの設備では何が起きやすいのか」「過去20年間にどんなトラブルがあったのか」「ベテラン社員は何を見て判断しているのか」「この得意先ではなぜ特別処理が必要なのか」を知りません。
つまり、
AIを導入することと、会社の業務をAI化することは別物です。
SAP時代とAI時代の共通点
| SAP・ERP時代 | 現在のAI時代 |
|---|---|
| SAPを入れれば会社が変わる | AIを入れれば会社が変わる |
| 世界標準パッケージ | 世界共通の汎用AI |
| 自社業務をSAPに合わせる必要 | 自社業務をAIが理解できる形にする必要 |
| 現場固有業務が障害になる | 現場固有の経験知がAIには不足 |
| 大量アドオンで複雑化 | 場当たり的なAIツール導入で複雑化 |
| IT部門だけでは成功しない | AI担当者だけでは成功しない |
| 本質は業務改革 | 本質は業務改革+知識化 |
最大の教訓
SAP導入の失敗から得られる最大の教訓は、「道具を導入することを目的にしてはいけない」
ということです。SAPもAIも道具です。重要なのは、
自社にはどのような業務があり、どこに問題があり、どの経験知を残し、どの仕事を標準化し、どこを機械に任せるのかを先に考えることです。
AI導入で本当に必要なもの
これからの製造業に必要なのは、単にChatGPTを社員に配ることではありません。重要なのは、
会社の経験知をAIが利用できる資産に変えること
です。例えば、
過去のトラブル記録、製造条件、設備情報、品質情報、生産実績、在庫情報、作業手順
熟練者の判断基準、過去の設計資料、顧客ごとの対応履歴などを整理し、AIから利用できるようにする必要があります。
こうして初めて、「一般的なことを答えるAI」から「自社のことを理解して答えるAI」
へ変わります。
SAP時代とAI時代の決定的な違い
一方で、SAP時代とAI時代には大きな違いもあります。SAPでは、
人間の仕事をシステムの決められた処理に合わせる必要がありました。
AIでは逆に、人間が長年行ってきた判断や経験を、AIが理解して支援できる可能性があります。
ここがAIの大きな価値です。
したがって、これからのAI化で重要なのは、人間をAIに合わせることではなく、人間が蓄積してきた経験知をAIに引き継がせることです。
経営者が最初に考えるべきこと
「どのAIを導入するか」から考えてはいけません。最初に考えるべきなのは、
「我が社には、AIに引き継がせる価値のある知識が何十年分あるのか」です。
製造業にとって最大のAI資産は、最新のAIソフトではありません。長年蓄積してきた製造データと、社員が持っている経験知です。SAP時代は「業務の標準化」が中心でした。
AI時代はそこに、「経験知の資産化」が加わります。
これが、単なるAI導入と、本当の意味でのAI経営・AXとの大きな違いです。
結論
どのAIを買うかではなく、何十年分の経験知をどう資産化するか