1.NHK「世界一流に学ぶAIスキル」で何を伝えているのか
第1回の公式番組情報では、①実際にAIを使ってみる、②世界のAI覇権争いとシンガポールの事例、日本の現在地、③企業がAIを導入する「5つのステップ」、④中小企業の経理業務への実導入、という流れになっています。つまり「AIとは何か」という技術講義ではなく、世界→日本→企業→自分の仕事と順番に落としている構成です。
第2回ではさらに、家事ロボット、AIが急速に賢くなった理由、5段階のうちAX2~AX5、AIエージェント、フィジカルAI、企業への実地指導まで進みます。したがって、第1回の「AIを使ってみる」は入口にすぎず、第2回まで見ると「AIによって会社をどう変えるか」という主題が明確になります。
2.最大のキーワードはDXではなく「AX」
松尾研は現在、DX(Digital Transformation)からさらに進み、
AX=AI Transformation
という考え方を明確に打ち出しています。
DXが、
「ITやデータを使って業務をデジタル化する」ことを中心にしていたのに対し、
AXは、
「AIが存在することを前提として、仕事・組織・意思決定そのものを再設計する」
という考え方です。松尾研自身も、企業や行政に求められる変革が「DXから、AI活用を前提に業務や組織を見直すAXへ移りつつある」と定義しています。
ここは極めて重要です。たとえば、「社員にChatGPTを配った」だけならAXとは言いにくい。
「議事録作成が30分から5分になった」もまだ初期段階です。
本当のAXでは、そもそも人間が最初から議事録を作成する業務フローが必要なのか?まで戻って考えます。
3.松尾教授が提示する「AX 5段階」
2026年8月14日に松尾研が公式に整理した5段階は非常に分かりやすいものです。
| 段階 | 内容 | 意味 |
|---|---|---|
| AX1 | 既存生成AIを使う | 個人の仕事をAI化 |
| AX2 | 社内データ+AI、RAG、AIエージェント | 社内業務をAI化 |
| AX3 | 業務プロセス全体をAI前提で刷新 | 仕事の仕組みを変更 |
| AX4 | 独自AIモデルを開発 | 自社競争力をAI化 |
| AX5 | 業界・サプライチェーン共通AI基盤 | 産業そのものをAI化 |
松尾研がAX1、AX2をまず全国に普及させようとしているのは、単にAI技術者を増やしたいからではありません。営業、経理、人事、生産管理など現場業務を知っている普通の人がAIを使えることが重要だとして、非IT人材向けの「AXエバンジェリスト講座」まで2026年9月から始めます。
この5段階をもう少し実務的に読み替えると、かなり重要な意味が見えてきます。
4.AX1 ― ChatGPTを使う
これは現在、多くの会社が行っている段階です。
メールを書く、文書を要約する、Excelを分析する、プログラムを書く、資料を検索する、といった個人単位の生産性向上です。NHK第1回で中小企業の経理業務にAIを入れた例も、まずこの入口を体験させる狙いです。
ただし松尾教授の議論では、ここで止まってはいけない。これだけでは会社全体の生産性革命にはなりません。
5.AX2 ― 「一般知識AI」から「うちの会社を知っているAI」へ
次に会社固有のデータへAIを接続します。
たとえば、社内規程、過去の見積書、設計書、顧客情報、製造実績、品質記録、故障履歴、マニュアル、議事録などです。ここでRAGやAIエージェントが重要になります。松尾研もAX2を「社内データを活用し、AIエージェントなどによって業務効率化を図る段階」と定義しています。
つまり、ChatGPT → 社内AIへの移行です。
製造業なら非常に大きな意味があります。「一般的な充填機の故障原因を教えて」ではなく、
「当社の○号充填機で過去5年間、同じアラームが出たときの原因と対応を教えて」に変わるからです。
6.AX3 ― 人間中心の仕事を「AI前提」に作り直す
ここから本当の「Transformation」になります。従来、
人が情報収集
↓
人がExcel作成
↓
人が資料作成
↓
上司がチェック
↓
判断
だったものを、
データ発生
↓
AIが自動収集
↓
AIが分析
↓
AIが案を作成
↓
人間が例外・重要事項だけ確認
↓
人間が最終判断
に変更する。
つまり、人間がやっていた作業をAIに置換するのではなく、「人間が作業することを前提に作られた業務プロセス」を捨てるという話です。
松尾研がAX3を「業務プロセス全体をAIで刷新する」としているのはこの意味です。これは従来のRPAともかなり違います。
RPAは、現在の業務をそのまま機械にやらせることが多かった。AX3は、そもそも現在の業務手順が必要なのかまで戻ります。
7.AX4 ― 自社の経験知そのものをAI化する
これは日本の製造業にとって非常に重要だと思います。AX4では、「ChatGPTを上手に使う会社」ではなく、「他社には作れないAIを持つ会社」になります。
たとえば製造業なら、熟練技術者の判断、過去数十年の製造条件、品質異常と対策、設備特性、原材料特性、配合、歩留まり、気温・湿度との関係などです。
これらを企業固有データとしてAIへ組み込めば、経験知そのものが企業資産になる。松尾研はAX4を「独自でAIモデルを開発する段階」と明確に位置付けています。これは単なる省力化とは違います。「人を減らすAI」ではなく、会社の競争力をコピー可能なデジタル資産へ変換するAIです。
8.AX5 ― 一社ではなく「業界そのもの」をAI化する
さらにその上があります。AX5では、業界・サプライチェーン単位で使えるAI基盤を作ります。
例えば製造業なら、
原料メーカー
→ 製造会社
→ 容器メーカー
→ 物流
→ 商社
→ 小売
までAIでつなぐ。
すると、
需要予測
→ 生産計画
→ 原料発注
→ 製造
→ 物流が企業の境界を越えて最適化される可能性があります。
ここまで来ると、「企業のIT化」ではなく「産業構造の変更」です。これが「社会変革・産業へのインパクト」という言葉の実体だと思います。
9.AIエージェントがなぜ重要なのか
生成AIが登場した当初は、人間 → 質問 → AI → 回答でした。
AIエージェントになると、人間 → 目的を指示 → AIが複数の作業を実行へ変わります。
松尾研も、AIエージェントについて「複数の作業を自律的に進める」技術として、営業・経理・人事・生産管理への実践活用をAX教育に組み込んでいます。
たとえば、「昨日受注した商品について不足材料を調べ、発注候補を作って」と言えば、
受注確認
→ 在庫確認
→ BOM確認
→ 入荷予定確認
→ 不足量計算
→ 発注候補作成まで進む。
この段階になると、AIは「回答装置」から「作業主体」になります。
これが2026年前後にAIの産業インパクトが急に大きくなっている理由の一つです。松尾教授も2026年の年頭所感で、AIエージェントが企業の業務フローに組み込まれる事例が増えていると指摘しています。
10.そして次が「フィジカルAI」
ここが日本戦略として非常に重要です。これまでの生成AIは、文章、画像、音声、プログラムというデジタル世界が中心でした。
フィジカルAIは、AI+ロボット+現実世界です。
たとえば、工場ロボット、物流ロボット、介護ロボット、建設機械、自動運転、家庭用ロボットです。松尾教授は2026年の重点分野としてフィジカルAIを明確に挙げており、ロボット基盤モデルやVLA(Vision-Language-Action)の活用、製造・物流・小売・災害対応などでの展開を重要視しています。
NHK第2回でも、家事ロボットやフィジカルAIが大きく取り上げられるのはこのためです。
11.なぜ日本に「フィジカルAIの勝ち筋」があるのか
米国の強みは、巨大IT企業、ソフトウェア、クラウド、GPU投資、巨大データセンター、LLMです。一方、日本には、自動車、工作機械、産業ロボット、製造設備、精密機器、部品・材料、現場ノウハウという現実世界の巨大な産業基盤があります。
松尾教授は日本のフィジカルAIを重要技術と位置付け、大企業だけでなくスタートアップも含め多くの企業を参入させる必要があると政府の成長戦略会議でも述べています。ですから戦略は、「アメリカより大きなChatGPTを作る」だけではない。
むしろ、世界最高のAI × 日本の製造技術・現場データ・ロボットという組み合わせに大きな機会があります。
12.バーティカルAIも日本戦略の柱
もう一つ非常に重要なのが、Vertical AI=業界特化AIです。医療AI、金融AI、製造AI、建設AI、化学AI、製薬AI、法律AIなどです。
松尾教授は政府の場でも、バーティカルAIについて「分野ごとに、官公需を起点としながら産業政策として設計することが重要」と述べています。これは極めて重要な発想です。ChatGPTのような汎用AIは、世界中の知識を広く知っている。
一方Vertical AIは、その業界の深い経験知を知っている。競争力になるのは後者の場合が多い。そのため、汎用AI × 業界知識 × 企業固有データという組み合わせが実用AIの中心になります。
13.米中との「巨大AI正面戦争」だけを考えない
松尾教授の2026年の発言で特に面白いのがここです。米中が戦っているのは、
巨大モデル
巨大データセンター
巨大電力
巨大資本を投入するAGI競争であり、Winner-takes-all型の競争です。しかし松尾教授は、世界中の国が本当に欲しいものは必ずしも「世界一のAGI」ではないと見ています。多くの国が欲しいのは、「AIで自国の農業を強くしたい」「製造業を強くしたい」「行政を効率化したい」というAI活用です。
そこで、日本+ASEAN+アフリカなどが、米中とは違う「AI活用の第3極」を形成できるのではないか、という戦略を示しています。私はここが松尾戦略の中でも特に重要な部分だと思います。
14.シンガポールがNHKに登場した意味
NHK第1回がわざわざシンガポールを取り上げたのも、この文脈で見ると分かります。番組公式情報でも「世界の覇権争い」「シンガポールの事例」「日本の現在地」を一続きのテーマとして扱っています。
松尾教授は以前から、シンガポールを中心とする東南アジアの言語・文化に適合したLLM構想を、日本が協力できる有力な方向として挙げています。日本で開発したAIアプリケーションをASEAN各国へ展開できる可能性も指摘しています。
つまり、英語圏向け巨大LLMだけがAI市場ではないということです。ローカル言語、文化、制度、産業を理解するAIにも巨大な市場があります。
15.最大の政策目標は「日本中の会社にAIを入れる」
松尾教授は非常に具体的な数字も出しています。
全国の50%の企業が主要業務でAIを活用し、対象業務の作業時間を10~20%削減できれば、普及度合いに応じて日本の実質GDP成長率を0.5~1.6%ポイント押し上げられる可能性があるという試算です。これは相当大きい。日本の成長率が1%前後なら、AIによってもう1%ポイント程度追加できれば、成長速度が事実上倍になるという考え方です。
だから国家戦略として、「世界最高性能のAIを1個作る」より、日本中の企業がAIを日常業務で使うことが非常に重要になります。
16.「AI版QCサークル」という発想
この話は製造業の方なら非常に分かりやすいと思います。
松尾教授は、AI普及を、かつて日本中の工場に広がったQC活動になぞらえています。つまり、一部のAI専門家が高度なAIを使うのではなく、
営業も
経理も
工場も
物流も
中小企業も
地方企業も
各自が、「この作業、AIで改善できないか?」と考える。これを全国運動にする。
松尾教授自身がこれを「令和のAI版QCサークル」と説明し、地方金融機関などを中核に全国へ広げる構想も述べています。これは日本向けとしてかなり理にかなっています。
17.「AI人材」の定義も変わる
従来、AI人材=Pythonを書ける人、機械学習モデルを作れる人というイメージでした。
松尾教授の2026年の方向は違います。「AIを作る人」だけではなく、「AIを使いこなす人」を大量に育てる。AI人材育成は一部専門家の問題ではなく、「産業全体・社会全体で設計し直す基盤」と位置付けています。
だから松尾研のAXエバンジェリスト講座も、プログラミング経験不要。営業、経理、人事、生産管理など、現場を知る人を対象にしています。ここは非常に重要です。
18.人間の仕事はどうなるのか
ではAIが仕事をするようになれば、人間はいらなくなるのか。松尾教授の答えは比較的明確です。AIが、論理整理、事務作業、情報収集、文章作成などを代替していく一方、人間に残る重要な仕事は、
人と対話し、何をするか決め、最終的に責任を取ることだとしています。要するに、従来:人間=作業者+判断者だったものが、AX後:AI=作業・分析・提案、人間=目的設定・判断・交渉・責任へ移る。
2026年刊行の松尾豊・冨山和彦『日本経済AI成長戦略』でも、「AIが意思決定のOSを変える」「ホワイトカラーの消滅と“ボス力”の時代」「1億総ボスの時代」という構成になっています。
19.ここからが重要――この議論にはいくつか注意点もあります
松尾教授の方向性には説得力がありますが、経営者がそのまま「AIを入れればGDPも生産性も上がる」と理解するのは危険です。まず、10~20%時間が減ったことと、会社の生産性が10~20%上がることは同じではありません。
30分の資料作成が5分になっても、25分浮いただけでは会社の売上は増えません。その25分を別の価値創造へ使い、しかも全体の業務工程を短縮して初めて経済価値になります。したがってAX3の「業務プロセス変更」まで進むことが重要です。政府の議論でも、AIは投資しただけでは効かず「現場に実装されて初めて生産性が高まる」と指摘されています。
次に、AI導入には確認作業という新しいコストが発生します。
AIが90%正しくても、残る10%を誰かが確認しなければならない業務があります。品質保証、医療、会計、契約、製造指示などでは特に重要です。
つまり、時間だけを測ると劇的に見えても、「AI生成時間1分」入力準備+AI処理+出力検証+修正
+承認まで含めて評価しなければ、本当のROIは分かりません。
20.最大の経営課題は「AI技術」より「業務を知っているか」
AX2以降では、何をAIにさせるのか、どのデータを見るのか、どの判断をAIに任せるのか、どこから人間承認にするのかを決める必要があります。
これはAI技術者だけでは決められません。むしろ、20年、30年その業務をやっている人の方が重要なります。
ここがバーティカルAIの本質です。AIが賢くなるほど、「AIそのものを作る技術」より、「何をAIにやらせれば価値が出るかを知っていること」の価値が上がってきます。
松尾教授が繰り返し「How to doよりWhat to do」「何をやるかを間違えるな」と言っている理由もここにあります。
21.製造業に当てはめると、松尾教授の話はこうなる
例えば一つの工場を考えます。
AX1:作業者・管理者がChatGPT等を使う。
AX2:製造履歴、品質記録、設備故障、作業標準書などをRAG化。「過去の似たトラブル」をAIが探す。
AX3:生産計画、原料所要量計算、設備異常対応などをAIエージェント化。AIが情報収集から案の作成まで行い、人間が承認。
AX4:その会社固有の製造ノウハウ・設備特性・品質判断を学習した独自AI。競合には作れない。
AX5:原料会社、工場、物流、販売まで接続。需要予測から生産・調達・物流までAI最適化。これは単なる「AIチャット導入」と全く違います。製造業のOSそのものを変える話です。
22.松尾教授の議論で最も重要なのは「AX4」だと思います
AX1やAX2は、数年もすれば多くの会社ができます。ChatGPTを使う。RAGを作る。AIエージェントを作る。
これ自体は差別化になりにくくなります。
しかし、40年間蓄積した製造経験は競合会社にはありません。設備トラブル履歴もありません。熟練者の判断もありません。顧客との取引履歴もありません。
だから、AIそのものはコモディティ化するが、AIに与える「経験知」はコモディティ化しない。ここに、日本の中堅・中小製造業の大きな可能性があります。
これは松尾教授の「バーティカルAI」「ローカル産業×AI」「企業固有のAI」「AX4」という考え方と非常によく整合します。
23.松尾教授が描いている「日本の勝ち筋」
非常に単純化すれば、こうなります。
第1層:世界AI:米国・中国:巨大LLM・AGI:巨大GPU・巨大データセンター・巨大資本
第2層:日本が重点を置けるAI:世界モデル+日本固有データ+バーティカルAI+フィジカルAI
第3層:日本企業:製造、医療、物流、建設、金融、農業、行政、中小企業
第4層:AX
AX1:AIを使う
AX2:社内データとつなぐ
AX3:仕事を作り直す
AX4:自社独自AI
AX5:業界AI
そして最終的には、企業生産性向上→ 人手不足緩和→ 産業競争力向上→ GDP成長
という構造です。松尾研は全国的なAXの定着で実質GDP成長率を最大年1.6%ポイント押し上げ得るという構想を示しています。
特に重要だと思う3点
第一は、**「AIを導入する」のではなく「AIがある前提で業務を作り直す」**ことです。これがDXとAXの最大の違いです。
第二は、日本は巨大LLMだけで米中と殴り合う必要はなく、製造・ロボット・医療などのバーティカルAI/フィジカルAIに大きな勝機があるという考え方です。松尾教授自身も、米中型AGI競争とは別に「AI活用」を軸とした第3極の可能性を提示しています。
そして第三が最も重要で、AI時代には「何を知っているか」以上に「何をAIにやらせるべきかを知っている人」が強いという点です。松尾教授が「What to do」を繰り返し強調し、最終判断と責任は人間の仕事だとしているのも、この延長線上にあります。
特に製造業を見る場合、私はAX4=「企業が何十年も蓄積した経験知を独自AI化する」段階が、日本企業にとって最大の勝負どころだと見ています。